決断力

棋士の羽生さんの本.将棋の技術的な話はなく,むしろプロの世界における勝負について,語っておられる.
プロというのはほとんど技術的な優劣はわずかしかない.よって,勝負は本当にわずかな差しかない.しかし,わずかしか差がないのに,明らかに勝ち続ける人とそうでないひとにわかれてしまう.では一体,その差は何なのか?
例えば,相手のミスを待ち,そこに徹底的につけ込むのがうまい,あるいはわざと定跡(研究によってそのように打つことが最善であるとわかっている打ち方)に逆らって,混沌とした局面にし,そこからの勘が冴えているなどがあげられている.
将棋というのは,読みと戦法に関する正確な知識で決まる,と思っていたが,そういうものだけではないらしい.どんなプロ棋士でも10手先は読めないという.プロ棋士といえど,将棋のことについて知っていることは3分の1もない,という.だから定跡以外のことは正確にその先を予測できないわけだ.
私の仕事は別に相手を負かせて勝利を収めるというものではない.しかし,実際に仕事をしているといわゆる定跡では太刀打ちできない問題に直面する場合がある.例えば,ある設計上の問題を抱えているとする.明らかに理論上問題のある設計は捨てるとしても,いくつかの代替案が必ず残ってしまうものだ.それらの案は利点もあれば欠点もある.私たちは残念ながら問題全体を知ることはできないし,正確に将来のことを見通すことはできない.だから,どちらの案がより有利なのかは正確に決めることはできない.
そこで,重要なのは経験や勘だといえる.いままでこれでうまくいっていたから,これでもいけるはずだ.ということで,将来の予測をできる限り高めようとするわけだ.だから,失敗を避けなければならないという点を重視すれば,できる限り新しい要素はなくしていく方がよいという考えに陥りがちだ.
しかし,著者である羽生さんは,常にそういう態度では,棋譜が自由に手に入り,だれでも研究ができるようになっている今,時代に取り残されてしまうのではないかという.だから,あえて自分の得意パターンに持ち込まず,相手の得意パターンを受けて立つやり方を選ぶという.仮にそれで負けても自分は一つ勉強になったと考えるようにしているらしい.
私たちの業界も同じだ.失敗をおそれるあまり同じやり方ばかり繰り返されると,もはや使い物にならなくなってしまう.だから,リスクを承知で新しい一歩を踏み出す必要がある.もちろん,対象分野によってはより慎重にならざるを得ないものもあるだろう.ミッションクリティカルなシステムではリスクが高すぎるということもある.将棋のように失敗しても勉強になったからいい,などという理屈は絶対に通用しない.
もちろんそれは十分わかっているのだが,それでは駄目なことも,私の業界ではいえるのではないか.また,多くの業界でも,新しい環境変化に対して保守的な戦略を持つ企業はいずれ淘汰されてしまうことも,正しいはずだ.
羽生さんはここで意外な,しかし私たちには聞き慣れた言葉を紹介する.「キスでいけ」と.これは「KISSの原則」とも呼ばれており,Keep It Simple, Stupidの略である.日本語にすると「単純にしろ,この馬鹿」という軍隊用語らしい*1.つまり,何を難しいことをやろうとしているのだこの馬鹿が.ということである
ある問題に直面して,迷った場合は単純なものを選ぶ.考えてみれば,当たり前のことだが,その問題に直面した場合,何が単純なのかという判断が難しい*2.だから,一概にそれだけで判断できるとは残念ながら思えない.しかし,「この,馬鹿」の方は,私たちが陥りやすい罠を明示してくれている.こういうときは何か大事なことを忘れていることがある.だからもういちど,馬鹿になり,凝り固まった考えを一度捨てて,もう一度はじめから考え直すのもいいかもしれない.

決断力 (角川oneテーマ21)

決断力 (角川oneテーマ21)

*1:Keep It Simple and Smallの略という説もあり

*2:自分にとっては単純でも,人にとってはそうでないかもしれない.また,どちらの案も複雑だったりするかもしれない.