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小説を、文学を読むこととは、ただ文字に目を通すことではない。「れ」の字のなかにカンガルーを見出すことである。常識に囚われない自由な心をもち、常に新鮮に世界を再発見しつづけること。
他人を見下し、優越感に浸ることではない。
ケータイ小説を笑うまえに。 - Something Orange

小説そのものが昔は低劣な文化の代表だった。文学などという学問など近代までは成立し得なかった。
漫画もアニメも文化水準の低いもの(サブカルチャー=カルチャーの低い部分)とみなされていた。
おもしろいけれども、それはより水準の高い芸術を理解できない人たちが楽しむものだ、というものというのが、一般的な評価だった。


しかし、人気のあるもの、売れるもの、つまり利益を稼ぐものというのは、そうでないものと比較して、明らかに進歩を遂げる。
ケータイ小説の人気が継続すれば、つまり読者である人がその作品を支持する限りにおいて、どんなバッシングも関係ない。


これらの小説が批判されることもまた、健全なことではあると思う。
そして、ケータイ小説の書き手の人たちは批判をあまり気にせず、読者のためにもっともっといい作品を提供してほしい。


ところで、私は「恋空」も読んでいないし、小説もここ数年読んでいない。
たぶん、しばらくは読むこともないだろう。
一方で「恋空」への批判は一種のネタとして楽しんでいる。
優越感に浸る、ということもあるかもしれないが、そのような批判で終わってしまうのなら、ケータイ小説も一過性のブームとして片付けられるまでのことだ。


とにかく、ケータイ小説の(作品ではなく)市場には今後も注目していきたい。