謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

飛行機でアルゼンチンのブエノスアイレスについた時、現地のガイドさんに様々な注意を受けた。道を歩くときはカバンをこう持ちなさいとか、こんなサギに引っかかるなとか、この付近は絶対に行ってはいけないとか。私はそれを忠実に守った。せっかくの旅行がトラブルで楽しくなくなるのはいやだから。しかし、ソマリアはそんなレベルではない。ソマリランドの人たちはまさに狼のような人たちで、少しでも気を許すと、財産を奪われてしまう。南部にあるソマリアは兵士を雇わないと、すぐに拉致されて身代金を取られてしまう。
著者はそのような場所を少し後悔しながらも訪問し、そして、そこで生活をしている人と心を通じ合わせる。そして、徐々にそのような場所に慣れ、同化していくのだ。人間の適応力というものは自分が思うよりもずっと大きいのかもしれない。しかし、私は絶対に行きたくはないが。
特に印象に残ったのは2点ある。
1点目は、民族の生活スタイルがその気性を決定しているということ。北部ソマリアすなわち、ソマリランドは狩猟民族の人たちであり、戦争好きで、人に同情することは一種の敗北であって、自分を主張することに関心がある。私達日本人から見ると、まさに狼のような人たちだ。一方、南部ソマリアの人たちは農耕民族であり、かつ都市生活者の人が多い。よって、とても日本人的なメンタリティに近い人が多いらしい。
では、内戦が終わらず、延々と悲惨な事態を繰り返しているのはどちらか?それは好戦的な北部ではなく、南部の農耕民族のほうである。北部の人からすれば彼らは戦いというものを知らないから終わらせることができないのだという。
北部ソマリランドも内戦はあったのだが、話し合いと金銭的な補償を行うことで、いち早く内乱状態から脱している。この指摘は私達の常識からすると、逆のように思えるが、それが面白い。
2点目は、ソマリランドが氏族という大きな枠で括られ、その中で人々が生きているということで、平和が保たれているという視点である。その氏族には長老達がいて、人々は彼らに逆らうことができず、それによって平和が保たれている。一方、南部ソマリアは氏族というしばりをなくすことが近代的であるという価値観が都市生活者の中で浸透し、内戦中に長老たちが全て殺されたこともあって、抑えが効かなくなっている。また、抑圧されてきた氏族がイスラム原理主義勢力を支援することで、復讐することができるという構図が、さらに問題をややこしくしている。
恩讐を乗り越え、人々を強引にある方向に持っていくためにはこのような伝統的な権威が有効であるという示唆ではないだろうか。日本も60年くらい前にどうにもならないとみんながわかっているのに、理解し難い美学のもとに破滅へと突き進もうとしていたところへ、天皇という伝統的な権威によって、敗戦を迎えることができたいうのを思い出した。