夜回り先生の卒業証書 冬来たりなば春遠からじ

先日のドキュメントを見ていたらやっぱり泣いてしまった。そのせいか、ついこの本を手に取ってしまった。研究室でよんでいたらやめられなくなって、また泣きそうになってしまう。
いろいろ思うところがあったので、いくつかあげておきたい。

(犠牲になる子供達)に共通していることは。自己肯定感のなさです。しかし、考えてみてください。私たち大人だって、毎日毎日「おまえは、こんなこともできないのか」、「おまえはだらしない」、「おまえなんか、必要ない」と否定され続ければ、酒や夜の町に逃げるしかなくなるのではないでしょうか?自己肯定感、つまり自信は、認められること、ほめられること、大切にされることで自然にできていくものです。

自己肯定感がない人に「倫理」は意味をなさなくなる。例えば、なぜ人を殺してはいけないのかといえば、他の人に自分を殺されたくないから殺さないという相互性の論理が働くからである。しかし、自分は生きている価値がないと考えてしまうと、もはやその相互性の論理は働かない。だから、人は殺してもいいということになってしまう。
池田小学校に乱入して殺戮を行った男も、兵庫県で小学生を連続で殺害した中学生も同じだった。自分は生きている価値がない、自分はどうしようもない人間だと思ってしまうと、すべての倫理は無意味である。
夜の街へ逃げて、自分を認めてくれる世界に飛び込むと、こんどはそこで通用するルールに染められてしまうことになる。それはいわゆる昼の世界とは逆の倫理に染まっている。子供達は生きる最後のスペースをそこに見いだしているのかもしれない。そして、そこから抜け出すことはなかなかできないのだ。

今私たちの社会というのは、ものすごく攻撃的な構造になっています。人間関係が認め合うこと、許し合うことではなくて、攻撃から始まっていく。(中略)じつはこのイライラした社会の中の攻撃性がすべて集約されているのが子供達だということに気づきました。

競争に破れることにより、社会によって決められた「あるべき姿」を達成できない人たちが自己を肯定できなくなっている。残念だが、この競争社会では勝たなければほめられないから、自己肯定感を得られない。
自己肯定感をもてない人は、周りから軽蔑されていると感じ、愛するということの重荷に耐えかねて、愛すべき人を傷つけてしまう。自己肯定感がなければ、人を愛することなどできない。駄目だと感じている人間がどの面を下げて人を愛することができるのだろうか。

「過去は、すでに変えることはできません。過去は過去なんです。今をその過去にとらわれても明日は来ません。闘うか受け入れるかです。闘うのだったら手伝います。受け入れるのなら、今を明日のために使うことです。まずは、まわりのだれかにそっと優しさを配ってみませんか。その人の笑顔が心をいやしてくれます。また、自分について考えるのをやめませんか。答えの出ることはすでに答えがでています。答えが出ないから悩むんです。自分にこだわり苦しむより、人のために生きてみませんか。楽ですよ。水谷はそうして生きています。」

自分にとらわれて人を傷つけるのではなく、人のために生きてみる。そして認めあえる人間関係を作っていくことで、自己肯定感が得られる。カトリックらしい先生の言い方だけれども、私も自分が崩れそうなときは、それにならっていきたい。

夜回り先生の卒業証書―冬来たりなば春遠からじ

夜回り先生の卒業証書―冬来たりなば春遠からじ