共通テスト

今週は出張で大阪や岡山へ。ほとんど仕事だったので、感想は特にないかなあ。寒かった。
能登の白菊の「にごり酒」純米がきたけど、コロナのため飲み会はなし。

「鎌倉殿の13人」の1話をみた。1話からちょっと登場人物が多すぎませんかね。
まあ、ある程度はわかるけど、なんか駆け足な感じがするんだよなあ。

国語 第1問

宮沢賢治よだかの星における「食べる」という精神的な意味と、人間が「食べる」という過程は実は大きな循環のひとつにすぎないという科学的な意味を示す、2つの文を比較した設問。そこまで難しい問題はなく、全問答えられた。共通テストらしい問題はなかったような。

国語 第2問

リビングからみえる隣の家の看板をどけてほしいと願う男の話。問2は間違えたが、「身体の底から」というのを「存在を根底から覆された」ととらえることができるかどうかということだろう。

評論文に比べ、小説は難しい。比喩的な表現に対する解釈(要は言い換え)とできるかということと、書いていないことを区別しなければいけない。小説は主人公の心情などを選ばせるので、とくにこれが紙一重なような気がする。

一方で、試験なので小説はなんとなく読めてしまうことを、明確なことばで表さなくてはならない。そして、一般的な解釈とはなにかということをもっと考えて読まなければならない。つまり、登場人物を自分にあてはめたり、自分だったらどう思うだろうということではなく、批評家のような視点で、客観的に読まなくては試験にならない。

今回の第2問はとてもおもしろかった。受験生はこの中に出てくる「ジジイ」と主人公を罵る若い登場人物のほうが近く、設問として問われる主人公は、彼らからすれば遥かに遠い初老の男性である。受験生は年老いた男性が若い人に罵られるという気持ちを理解することは難しいかもれしれないが、こちらのほうが客観的になれるから、答えをかんたんに導き出せたかもしれない。

わたしはこの主人公の気持ちがわかるので、妙に感情移入してしまい、設問の選択肢の内容がしっくりこなかった。それは、文章に書かれていない私の気持ちがどこかに混ざるからだろう。

中学生に無視されて「ジジイ」と言われ、「身体の底から殴られたような嫌な痛み」を感じたとあるとき、私はそれが「存在を根底から覆される」とは思えなかった。しかし、それは私の気持ちであって、主観的な偏りなのである。私であれば「中学生に対してその暴言に対し、適切なことが何も言えなかった自分を情けなく思う気持ち」「自分で自分を傷つけてしまったような痛み」「その時は感じなかったが、あとからじわじわ効いてくる痛み」のような感じがしたが、どこにも書いていないので、そんなものは回答にはならない。

小説を試験として、あるいは大学で文学の研究対象として扱うのであれば、そういう読み方は必要なのだろう。しかし、小説に限らず、多くの芸術作品において、自分を主人公と同化させてしまうのは、普通である。そこに違和感を感じてしまうと、その作品に対する興味や面白さを感じなくなる原因にもなりかねない。もし、この問題文の小説の中に「私は存在を根底から覆されるような思いであった」と書いてあれば、私は違和感を感じて、「ああ、この人は変わった人なんだな」とさえ思ってしまい、受け取り方も変わったかもしれない。あるいは、もっとひどくて、そういう文章をなかったことに、記憶から外してしまうことすらしてしまうかもしれない。

普通は、俳句や和歌などを試験にできない。今回の第2問はあえてそれを行っているが、おもしろいのは俳句や和歌に対する解釈をすでに問題文に示している点である。逆に言えば、それがなければ、試験にならないのだ。つまり、俳句や和歌はそこに自分の主観・経験を混ぜて、様々な解釈を広げることこそに意味があるからである。そのような自由は、試験にあってはならない。