Bowling for Columbine

日本語吹き替え版を見る。始めは違和感を少し感じたが、途中からあまり気にならなくなった。やっぱりマリリン・マンソンがすごくかっこいい。いいこという。マイケル・ムーアも子供がマンソンを聞いていて、そのCDを取り上げたことを後悔しているみたい。こんどCDショップで買うことにしよう。
ところで、このDVDには特典映像というのがあって、ムーアが記者の質問に答えたりインタビューを受けているのを見ることができるが、この内容にかなり衝撃を受けた。ムーアがこの世の中が間違っていると感じたのは黒人の指導者マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたときに、教会に通っていた白人たちが歓声をあげたときだという。そこまで黒人を憎んでいるのだろうか。映画本編でも「モーセ」ことチャールトン・ヘストンが黒人へのある意味での恐怖意識を語っていた。
私たち日本人が感じるアメリカ像とはかなり違うものだ。MLBNBANFL、オリンピックも黒人ばかり。アメリカ人の半数は黒人ではないかと思える。
映画はアメリカがいかに暴力的かということを語っていく。始めは銃規制を訴えているのかと思ったが、実はカナダではアメリカ並みに銃があるのにさほど発砲事件が起きているわけではない。この差は、福祉の切り捨てと弱者に対して厳しいアメリカ社会が裏にあるのではという。
いわゆる新保守主義の始まりとなったレーガンサッチャー・ロン(中曽根)は福祉が国をダメにしているとして、よくいえば弱者の保護から弱者の自立支援へ、悪くいえば単なる切り捨てを行っていった。経済は回復を見せた。アメリカは未曾有の好景気をうみ、イギリスは英国病と呼ばれた停滞をうち破り、日本はバブル経済へ突入した。
しかし、経済は回復したものの、実体は所得の格差を生んだだけで、低所得者層の所得は全くのびていない。このことはクルーグマンも指摘しているとおりだ。確かにカナダに比べ、失業率は低い。しかし、失業率の代わりに恐ろしいほどの低所得者層を生んでいる。時給が6ドルとか7ドルなど、アルバイト並みの賃金しかもらえない仕事を低所得者層に与え、与えた企業は補助金や減税措置を受けることができる。エンロン疑惑などアメリカの政界は日本並みに癒着をし始めた。まさに政財官一体となったアメリカはまるで日本のようだ。
日本でもコロンバインにおける生徒の銃乱射事件に匹敵する悲劇が起きている。大阪の池田にある小学校での無差別殺人事件がそうだ。銃ではないがナイフで多くの児童が殺された。根は同じなのだろうか。高校生といい大人の違いはあるが、彼らから感じる負の感情に共通する物を感じる。「おれなんかもうだめだ」という感情。自己の無価値感から来る破壊衝動といえばよいだろうか。競争社会からの脱落がそのまま人間としての価値が認められないということに繋がるような社会になっていることを強く感じる。そして日本が急速にそういう社会になっている気がする。
企業は競争原理を極限にまで高め、社員にプレッシャーを与えることで圧倒的な力を得て、他の企業に勝とうとする。これは資本主義の原理であり、これが働かなくなった集団は停滞し、やがて舞台から消え去る運命にある。しかし、それが本当に人の幸せに結びつくのだろうか。
社会が荒廃し、治安が悪化して他人は信じられず、人は他人に勝つことだけを考え、今の地位を脅かされることにおびえ続けるような社会に、なりつつあるのではないか。ドイツのシュレーダー首相がいったように、我々はアメリカのような社会になる必要はどこにもないのではないか。反面的な意味で、今のアメリカからもっと我々は学ぶべきではないのかと思った。