聖断 半藤一利 (ISBN:4163399003)

現実逃避で読んでいた一冊。終戦時の宰相であった鈴木貫太郎昭和天皇に関する伝記。このような伝記はどうしても今の私たちのフィルターを通してしまうため、天皇が平和主義者であったとか、軍部はこれだけ酷かったとか、そういう「教育的配慮」が成されることが多いのだが、この本は思ったよりもそういう部分が少なく読めた。
前半は薩摩出身重用の中で、華々しい戦果を上げながらも不遇の毎日を送ったことが描かれる。そして、侍従長という天皇の側近になり、陸軍との軋轢が生じ、「君属の奸」として二・二六事件で重傷を負ってしまう。このときの安藤という中堅将校との話がとても興味深い。
なぜ、若手将校が決起に走ったのか、鈴木貫太郎はそれに対してどのように返事をしたのか。そして、なぜ鈴木は死ななかったのか。
この重傷が元で鈴木は歴史の表舞台から一時去ることになる。この間に「大元帥」は「戦う大元帥」となり、戦争に積極的にのめり込むことになる。
戦争が転換点を越え、サイパンが陥落し、東条内閣は天皇の信頼を完全に裏切り、辞職。その後の小磯内閣も無策で、フィリピンが奪還されてしまう。
このようなもはや打つ手がないようなときに、鈴木は総理大臣につく。海軍出身の鈴木にはもはや海軍に組織的な抵抗ができないことはよく知っていたはずである。実際、海軍は対米戦反対派の生き残りである米内大臣を起用し、早期の終戦を考えていた。
しかし、おもしろいのは、鈴木はあくまでも戦争継続を考えていた節があるという点である。つまり、あっさり負けてしまうようなことがあってはならんというような発言を繰り返している。
よい。こういう事実は消してしまいたいものではある。実際、戦争継続を表明しなければ、立場が危ういといういいわけも可能だが、あえていえば、「天皇のために、国のために、もっと死ね」といっているわけだ。
確かに残虐であり、問題も多いかもしれない。しかし、歴史の人物の評価を今の私たちの感覚に当てはめてよいのだすろうか?
実際、この本を読んで、私は阿南惟幾陸軍大臣の生き様に惚れてしまった。まったく、価値観が違うところに生きているのにもかかわらず。辞世の句を読むと、本当の意味でのサムライはこういうものだろうと思った。
天皇は、沖縄戦の後の国の状況を冷静に見つめ、宮城の炎上、原子爆弾による破壊、そして(おそらくこれが一番大きな影響を持ったと思うのだが)ソビエトの参戦による日本の分割統治を恐れ、終戦に踏み切った。鈴木もそれに答え、阿南も折れた。
あの状況で天皇が決断しなければ、おそらく日本はとんでもないことになっていただろう。私は鈴木貫太郎と同様に天皇には戦争責任はあると思うし、護憲とか*1叫んでいる左翼の人たちと同様に天皇制は廃止すべきだとは思う。しかし、天皇個人には何の恨みもないし、昭和天皇は決して残虐非道な人非人とも思わない。むしろ、きわめて純粋で忠誠心をかき立てられるような優れた人物だったのだろう。
当時の人たちは国家や天皇という大義のために戦った。大義とは何か?人それぞれには義があって、それを主張すると社会がまとまらない。だから人々それぞれにとって普遍的な義、それが大義であると、昔の墨子はいったという。
現代は大義がない。ナショナリズムは少なくとも日本ではあまり声高に叫ばれることもない。むしろ戦争の主な原因とされ、国民国家を解体する時代、すなわち世界政府の誕生が、日本では夢想されてきた。
EUなどはその端緒かもしれない。しかし、現実はむしろ逆行している。20世紀に入り人類は殺戮を繰り返し、いまだにそれがやむ気配はない。民族同士の対立はなお深く、独立戦争が戦われている。現実におけるベクトルは逆を向いている。
日本ですら、外国人の流入に警戒感を持ち、外国人の犯罪はその件数に比べて大きく取り上げられる。これは人が異なる民族に対し、警戒感を取り除いていない現れでもあろう。
21世紀はどうなるのだろうか。ナショナリズムは台頭してくるのだろうか。ナショナリズムが存在しなければ本当に世の中は乱れゆくのか。
鈴木の愛読書であった老子はこういったという。大義という言葉が持ち出されるのは、世の中が乱れているからである。人が自然に振る舞うことができれば、関係はなくなる。
昭和初めの急速な軍部の台頭の裏には東北における飢饉大恐慌があったといわれる。社会が荒れれば、大義が持ち出される。現在の日本やアメリカを見ても、確かにそうかもしれないと、この本を読んでそう思った。

*1:まさに、護憲こそ保守のなにものでもないと思うが