論理的に話すということ

研究室の同期の子と延々と話をする。数理論理学の話をしているうちに、「論理的に話す」ということはいったいどういうことなのだろうと考える。
数理論理学の授業の第一回目にあったように、論理学において各命題が正しいかどうかということについては、何ら関心を持たない。
例えば、「イラク自衛隊を派遣すべきである」という命題について、論理学はどう考えるかというと、イラク自衛隊などはどうでもよく、この命題そのものをある変数Qにしてしまうなど、抽象化を行ってしまう。つまり、この命題そのものがどうなろうろ知らない。
では、論理学は何をするかというと、この命題間の関係(論理式)を用いて、その論理式が厳密に正しいかどうかを検証しているにすぎない。この論理式が正しいというのは、いままでの授業であったようにトートロジーであるかどうかを検証しているのである。つまり「AならばA」ということを述べているだけであって、「論理的に正しいことを行っているということは何もいっていないことに等しい」というのは、命題論理を学んだ今でも理解できることである。
つまり、「イラク自衛隊を派遣すべきである」という命題を論理的に証明するということは、これを導出するための前提条件が正しいことを証明しなければならない。そして、その前提条件が正しいことを証明するためには、その前提条件の前提条件を証明しなければならない。そこで仮に、前提条件が正しいと認めるとすれば、先ほどの命題が正しいということを認めているのと等価なのである。
しかし、現実問題において論理学的に計算できる命題はどの程度あるのだろう。例えば、論理的に話をすることを求められるのは他人を説得するとき、すなわち相手に自分の考えを共有してもらうときがある。しかし、これはほとんどの場合は厳密には不可能である。例えば、イラク派遣の命題でいえば「将来どうなるか」ということを根拠に含める必要があるが、こんなことは真なのか偽なのか神でなければわからない。
では、私たちが「論理的だ」というのはいったい何なのか?これは、結局、その命題に対して、それが「正しいと思えるように、その思考過程を説明している」ということにすぎない。つまり、なぜそう思えるのかということを、わかりやすく説明できるかどうか、これが論理的かどうかということである。
よって、説得をされる人と説得をする人とが同じ前提条件を共有していれば、論理的に説明する必要などない。結論だけでよい。また、逆に共有できない限りはいつまでも平行線をたどる。よって、討論番組で結論は出にくい。仮に、前提条件として否定しにくい数値を元に論理を組み立てたとしても、その数値が今後の将来に当たってどう変化していくかは誰も理解できないし、その数値自体の信頼性も疑おうと思えばいくらでも疑うことができるのである。
数理論理学の一番はじめの授業で、論理的に反論した後で、「矛盾して何が悪い」と強弁されてどうしようもなかったという話があった。実は、人を説得する上で(とくに意見の対立がある状態で)、論理的に相手をやりこめてしまうことは実は下策である、ということをよく示している話だと私は思う。