新しい生物学の教科書 池田清彦著(ISBN:4104231029 )

高校の生物の教科書を使いながら、内容が不正確なものを指摘し、さらに最新の興味深いトピックを加えた本。高校時代にこの本に出会っていたらどうなっていただろうと、思うが、さすがにこの年になってこの本を読むと、あまりに生物の内容を忘れてしまっていて、難しく感じてしまう。
例えば3章にある減数分裂。すっかり忘れているし、もはや思い出すことも難しい。「相同染色体」などの言葉から内容をすぐイメージできなければ、生物の教科書をそばに置いて読むべきなのだろう。
高校の教科書は意外と出版社により幅があることがよくわかる。中学までは比較的判をおしたような内容なのに対し、高校は記述に幅があるようだ。おそらく執筆している先生の専門がでているのだろう。
いくつかおもしろいトピックがあったので目に付いたものをあげておく。

生物が子孫に伝える最小単位は細胞であって、遺伝子やDNAではない。

コンピュータでいえばDNAはメモリのようなものである。メモリは何かの情報を格納しているが、その情報をどう解釈するかはCPUなどの解釈するシステムの仕事である。つまり、DNAはあくまでも一部にすぎず、DNAが遺伝のすべてを決定しているというわけではない。

熱帯雨林に種がたくさん存在しているのは、太陽エネルギー量が多いことと、地質学的な時間幅で生態系が完全破壊を免れてきたという2つの説が有力である。

温帯などは地球の環境変動で大きく気温が変わり、大絶滅を繰り返してきたらしい。これを考えると地球の温暖化というのはどこまでが自然現象なのか特定することが難しい。

形態や機能の同一性を保ちながら、構成する物質がどんどん入れ替わることを代謝という。

生きていることということはすなわち代謝することなのだそうだ。また、私を構成する物質はしばらくすると別の物質に変わってしまうという。つまり物質的には別の私になっているということである。読んでいてとても不思議な感覚になる。
また、自然保護とは生態系における代謝をうまく作用させることだという。つまり現在の生態系が処理できない廃物を出さないことである。

放射能をまき散らしても、汚染物質をまき散らしても、人間を含めた一部の生物が病気になったり減少したり絶滅したりするだけで、生態系自体はそれを組み込んだ新しい安定点へすべっていくだけの話だから、べつにどうということはないのである。2.5億年前のペルム紀の大絶滅の際も、6500万年前の白亜紀の大絶滅の際も、生態系はそのようにして、こともなげに存続してきたのである。現在の生態系を保全するのは生態系のためではなく人間の安定的な生存のためなのだ。

これは私がかなり前から感じていた自然保護運動に対する違和感そのままであり、読んでいて一番共感する部分である。

死は進化の過程で獲得された機能である

原始的な動物は死なないそうである。死ぬことで進化をし、多様性を獲得できたのだという。つまり死ぬことはあらかじめプログラムされているということだ。しかしその一方で「死ぬのはいやだ」「老いたくはない」という気持ちも同時にプログラムされている。つまり人間はあらかじめ苦しむようにプログラムされているのだ。この苦しみもまた進化のために必要なことなのだろう