能登末廣

あの、おやじの手造りでおなじみの中島酒造さんの記事が毎日新聞のサイトで見ることができます。
http://mainichi.jp/kansai/reportage2010/news/20101027ddn012040033000c.html
そのうち見られなくなると思うので、早めに見ましょう。

当時の造り酒屋では、酒造りは杜氏(とうじ)に任せるのが普通だった。だが、大学の実験室で化学の実験に没頭した中島にとって、米から酒という異なるものを作り出す作業はこのうえなく興味深かった。店の仕事は義父と妻に任せ、自分は酒蔵に入り浸って杜氏の一挙手一投足を追い続けた。6年後に義父が亡くなり、中島が後を継いでからも酒造りを学ぶ姿勢は変わらなかった。

おやじさんは婿養子で、化学者だったとは。

2月、中島は新酒の仕込みを始めるため、トラックで酒米、麹(こうじ)、仕込み水を数馬酒造に運び込んだ。麹作り、醸造、搾りなど酒造りの工程は蔵元ごとに異なり、杜氏の技が試される。中島は数馬酒造の蔵で、自らの手法で酒造りすることができ、わずか1タンク(2キロリットル)だが、被災後初めての酒ができた。「来年こそは自分の蔵で造る」と中島は胸に誓った。

震災直後は、たった、2キロリットルしかつくれなかったとは。

「頼むさかい、もう酒造りはやめてください」。中島酒造店の新しい酒蔵の設計ができた07年夏のある日、中島浩司(56)の妻喜久子(51)が突然切り出した。

 中島は日ごろ、「酒屋っちゅうのは、輪島塗と一緒にまちづくり支える大事な仕事やから」と口にする。店の内側から見てきた喜久子には夫の言葉が今ひとつ理解できず、「こんなちっちゃい酒屋が一つぐらいやめたって誰も気にせんわいね」と思っていた。
 だが、震災を機に、店を心配して訪ねてくれる客や同業者を見て少しずつ考えが変わった。祖母の思いを知った今、喜久子は心に決めている。「お父さんがやるっちゅうがなら、一緒にやってみるしかないわね」

震災の翌年に蔵に行った際、おばさんが涙ぐんでおられたのはこんなことがあったのか。

2年目の今年も酒米を50%以下に磨く大吟醸酒に挑戦した。完成した酒は自分でも驚くほどのうまさだった。中島は別の大吟醸酒を全国鑑評会に出品するつもりだったが、新酒を試飲した日本酒愛好家が驚いた。「この酒を出すべきだ」。中島は迷った末、締め切り直前に石川門で造った酒に替えた。結果は見事入賞だった。

大吟醸も石川門も買わないと。

http://www.noto-suehiro.co.jp/
ホームページも変わっていました。いい感じです。