別の人によって記述されなければならない日

ふと,奥山さんのブログを見ると,4月で止まっていた.他のサイトでブログを再開されているようで,リンクをたどると,最新の記事は,奥山さんのお母さんが書かれていた.そして,その日でブログは止まっていた.
以前の日記にも書いたが,奥山さんは私と同じ学年の人だ.バイクが趣味で,編集者をされているようだった.彼は,数年前に末期ガンにかかり,数年の余命を宣告される.
彼のブログは強気だった.ガンと戦うこと,いや,そもそもガンなどを感じさせない日々だった.私が知っていた頃は.
しかし,別のサイトに移ったときに,彼はすでにアップを別に頼まなければならない状態に陥っていた.日常をつづる文章が減り,徐々に自分の病状に関する文章が増えていく.
最後の日.彼はこう書いただけの日記を付けた

死にたくないな。
書店で会いたい。
本屋でセットで買ってくれ。

わかるのかもしれない.もう無理なことが.しかし,たくさんの人が,最後の日にコメントを付けている.「がんばれ」とか,「まけるな」とか.でも,それはあまりに酷なことではないのか.今の私はそう思う.
ただ運命を受容することでしかない部分も私たちにはあるのだ,あがなうことができないなにかが.
そうともわかっていても,私たちはそういわなければならないのか.