鎌倉幕府

コロナのおかげで、外にあまり出ないようにしている。週末は、すみだ北斎美術館の「北斎で日本史」をみてきた。当時の歴史物の武士は歌舞伎の隈取りをしていたりと、様式的に書かれているのが印象的だった。武士は身近にいたのに、なぜ写実的に書かなかったのだろう。
葛飾北斎 (2代目) - Wikipediaという人がいたことも初めて知った。

鎌倉軍事政権の誕生(歴史群像 2021年)

今年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」ということで、歴史群像の「鎌倉軍事政権の誕生」という5回の連載を通読してみた。いくつかピックアップしてみたい。

院政の本質は、王家の資産形成システム他ならない

なぜ、院政をするかと言えば、荘園による蓄財ができるかららしい。中央集権的な公地公民制が骨抜きにされ、いわば荘園という私有財産が認められていく過程において、皇室も同じように蓄財せざるを得なくなっていたようだ。ただ、時代が経るにつれ荘園でない公領からも、中抜きできるように制度がされるにおよび(知行国主制)、国家財政はほぼなきに等しくなってしまう。

律令国家が創設した国軍は、平安時代の中頃までに解体してしまった

平和な時代が長引いたため、国軍は解散し、必要に応じて民間にアウトソーシングした。武士はそこから生まれ、荘園領主の手先として、在地領主としてのテリトリーを確保していた。まあ、いってみればヤクザが農民からみかじめ料を取って、その一部を国が抜くようなものである。彼らにとってみればテリトリーが最も重要になる。
保元の乱平治の乱などで、彼らを使嗾して貴族たちが争いを企てていったことで、その母屋を乗っ取られるのは当然だろう。

中世の武士は、従軍に必要なものはすべて自前でまかなうのが基本だ。この補給体制の不在こそが義仲軍の急進撃を可能にした

古代の共和制ローマと同じ。義仲軍は京都の町の富だけでなく、富を収奪するシステムそのものまでを機能不全に陥れることになり、後白河法皇に裏切られることになる。一方、このあと、頼朝はこの考え方を転換し、平氏を追い詰めていくことになった。

後白河が没すると、朝廷は頼朝をようやく征夷大将軍に任じた。しかし、この官職をも二年後には返上してしまう。代わりに頼朝が欲したのは、娘の大姫を後鳥羽に入内させることにあった

鎌倉幕府としては宮将軍を担ぐことが目的だったということである。それは、鎌倉殿が荘園から吸い上げた利益を配分することができる権利を得るための手段だった。鎌倉時代はかなり後になってから宮将軍を実現することができたが、本当はもっとはじめからそうしたかったのだという。知らなかったかなあ。
このあと、頼朝の子供たちがほぼ暗殺されてしまったり、貴族を将軍にしては解任したりとしていくのだが、それでもなぜ必要だったのかと言えば、鎌倉幕府そのものが、実は既存のシステムの上にのっていたに過ぎないからである。
承久の乱で皇室の権力を抑え込んだとしても、それを抑え込めたのも、既存の経済システムの上に成り立った主従関係が基盤となっていたためだった。承久の乱は武士が完全に皇室を圧倒したのではなく、後鳥羽の暴発として処理され、結局は平安時代に確立されたいびつな私有財産制が武士に解放されたにすぎなかった。

経済システムから鎌倉幕府を見ていくのは面白い。よく考えてみれば、政治とは基本的には富の配分であると考えれば、当然のことだろう。よく、武士は名誉や主君への忠誠と言った精神的な側面が強調されがちだが、物語としては面白いからかもしれないが、実際はもっと現実的に動いていたはずだ。また、律令制という、国家が独占する社会主義体制のようなものから、私有財産制へ解体されていく上で、戦争が絶えなくなるというのも、マルクスレーニンと言った近代の人たちの唯物史観とのつながりを考えると(同じではないと思うが)、面白い。