清沢冽 外交評論の運命

今週は、コロナの影響もあり、出張がリモート会議になったせいで、病院に行ってきた日以外はほぼ家から出ず。
3連休はゆっくり本を読むことができた。読んだ本の感想を書いていく。

清沢冽 外交評論の運命(中公新書

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暗黒日記を読んでから、著者の人生を知りたくなり、読んでみた。

研成義塾は、内村鑑三の影響を受けた無教会派のクリスチャン、井口喜源治が、明治31年に創立し、34年に正式の認可を受けた小さな学校であった。

家庭は裕福だったものの、兄が旧制中学で落第したため、進学できなかったようだ。「お手軽な補習教育」というつもりで進学したようだが、この選択は彼に決定的な影響を与えた。それはキリスト教への帰依ではない。アメリカへの移住のきっかけを開いたことだ。この学校はアメリカへの移民を積極的に支援していた。清沢はキリスト教は途中で棄教するが、晩年に暗黒日記でも繰り返して青山学院や立教大学など、キリスト教の学校に対する戦時中の弾圧について何度も言及している。

死んだと思って家族はアメリカへ送り出してくれた。彼は働きながら、大学の聴講生になったりもしたようだ。やがて、文才を発揮し、日系移民のための新聞社の記者になる。
彼はそこで、日系移民への差別に直面する。彼らが仕事を奪っているというのだ。土地の取得に制限を加えようとするなど厳しい状況におかれた。しかし、極めて冷静に状況を分析し、それを記事にしている。それができたのは、アメリカが持つ意見の多様性だった。つまり、それを差別であると批判するアメリカ人も少なくはなかった。それを彼は見ていたのだ。

のちに彼は帰国し、日本の新聞社である中外商業新報(のちの日本経済新聞社)で記者として働くことになる。だが、帰国したため、30歳過ぎで徴兵される。

清澤は入営早々に松原にはがきを送り、最初の教練で前へ進めとか右向け右といった号令にも逆らい、入営翌日にして営倉入りとなった

運動はだめで、軍隊の文化に全くなじめなかったようだ。これが、後の批評活動にも大きく影響している。足のけがで除隊したが、陸軍ではほぼ厄介払いに近かったようだ。

仕事に戻ってしばらくたった頃、関東大震災が起きる。そこで社会主義者朝鮮人や中国人などの外国人に対して、虐殺事件が起きた。彼は、妻と娘を震災で失いながらも、自分が移民としてアメリカで受けた差別の裏返しとして、この事件にとても憤慨している。

異人種に対する迫害や群集心理が生み出す極度の興奮は、彼にとっては未知のものではなかった。清沢によれば、朝鮮人に関する流言に最も狼狽したのは軍隊であり警察であった。軍隊や警察こそ普段から朝鮮人を最も虐待し、彼らの犯行の危険を最も恐れていたからである。朝鮮人虐殺は、したがって旧式な軍国主義、狭量な国家主義の行き詰まりを如実に示したものととらえられたのである。(「震災と朝鮮人」『新世界』1923/11/6 -9)

そして、無政府主義者大杉栄虐殺事件にも大きな衝撃を受け、彼は「甘粕と大杉の対話」という一篇を書いて、それを批判した。
彼は、軍隊、そして官僚、警察、そして国会主義という全体主義に対して極めて厳しい批判を見せる。例えば、こういう文章を書く。

ある華族が芸者と心中未遂事件を起こして平民に格下げされた事件を取り上げる。自分はかつて平民であることを恥じたことはない。それなのに品行が悪いから平民にするとはけしからん。むしろ平生品行の悪いのは華族の方ではないか。

特別高等とか高等係というから弁当の種類か何かだと思っていたら、警察で社会主義者を対象とする連中らしい。それが高等なら泥棒を捕まえたり、人民を保護したりするのは下等なのだろう。警察がむやみにいわゆる不穏文書の取り締まりなどに力を入れ、一般人民の保護に不熱心なわけがやっとわかった。(中略)しかし、我々が怖いのは不穏文書なのではなく、下等の泥棒の方なのだが。

大正が終わり、昭和になると、日本は中国進出に傾斜していく。彼の仲間で後の総理大臣となる東洋経済新報社石橋湛山らとともに植民地経営や膨張主義帝国主義)を批判し、自由貿易の拡大による国富の増大を主張する。例えば、山東出兵の収支バランスを次のように検討している。

山東に居住する日本人は2000人。投下資本総額は57万円、その他に山東鉄道関係の債権があるが、それらをすべて含めて、日本の「権益」は350万円を超えなかったと清沢は計算する。しかるに、これを守ろうして行った出兵の費用は海軍関係を除いても3740万円を超えていた。それ以外に出兵によって失われた多くの人命があり、また中国が山東出兵に抗議して始めた日本製品ボイコットがあった。これによる対中国輸出の減少は2億円にのぼると清沢は見積もった。しかも山東権益は守りえたわけではなく多くの居住民が引き上げざるをえなかったのである。

山東出兵に関しては多くの知識人も批判したが、それに加えて満州の経営も同様だと主張している。結局、日本は大規模な資本を満州に投下し、軍隊も大量に駐屯させているが、それから得る利益は、それにたいして十分とは言えず、むしろ中国との貿易による利益の方が圧倒的に大きいという。少なくとも、国富を増大させるという意味においては、全く意味をなしていないどころか、マイナスなのだと。

しかし、日本は満州事変からさらに上海事変へ至り、米英の世論を燃え上がらせてしまう。そして、松岡洋右全権は国際連盟を脱退する。松岡と清沢は境遇がすごく似ていた。両方ともアメリカで苦学し、アメリカの大学に学んでいる。
ただし、松岡は強硬外交を進めることになった。清沢はそれを批判するが、その差は一体何だったのだろう。著者はそれを2点挙げている。

面白いのは、清沢がヨーロッパに派遣された時のことである。彼は日本を代表するという状況になって初めて、外国で日本の帝国主義施策を擁護する立場におかれた。彼は自嘲気味に「小松岡のロールを演じて自ら苦笑す」と日記に書いている。実際に他国から日本を攻撃されると、普段は日本の政治を批判する彼ですら、日本の立場を強硬に主張した。
もしかして、清沢も民間でなく、政治家になっていたら、同様の主張をしたであろうか?

その後、様々な主張をするが、ことごとく彼の提案は無視され(やや無理な主張もあったが)、悪い予測は的中して、日本は敗北へと進んでいく。戦中はほぼ言論の機会を失うが、とても裕福であったようで、実業界にも支援者が多く、軽井沢の別荘で過ごしたり、ゴルフをしたという話が「暗黒日記」にも出てくる。
しかし、突然、終戦までわずかというところで、肺炎で亡くなる。東京への空襲が激しくなり、葬式も満足にできない状況だった。

本書は清沢の人生と、その中で表した著作を紹介している。そして、なぜそのような思想が生まれたのかを考察している。アメリカの日本人移民の間でも清沢の思想は異質なものであった。海外の日本人社会の方が、日本に対する愛国心がより強くなるようだ。
また、常に右翼に批判され、言論の場を奪われる一方で、大恐慌の中で影響が少なく、資本主義の限界を主張する共産主義者からは、清沢の自由主義は古い思想であると無視された。

だが、彼は右翼と左翼は自由な言論を許さないという点で、間違った思想であると考えていた。つまり、どんな場合でも、建設的な話し合いと寛容を原則とするなら、理想ばかりを押しつけ、妥協を知らない極端な思想は同じように見えただろう。また、大きなものに頼り、権威をあがめる、いわゆる事大主義を批判し、その手先である非効率な官僚制を批判し、民間の力を信頼した。満州経営がうまくいかないと考えたのも、国家による補助・保護が先行し、官僚が仕切っている国策会社満州鉄道中心の植民地経営では行き詰まると考えていたようだ。

清沢は大久保利通を尊敬していた。大久保は士族の不満等を一蹴し、日本の建設のために自分の信じる道を進んだ。明治の偉人はそれができた、といっている。だが、昭和初期の日本は、政治家が自分の信じる道を貫ける状態ではなかった。テロが頻発し、政治家の多くが殺された。それは汚職を繰り返した政治家を信じず、私心のない軍人を信じた世論というものに生み出されたものである。世論に迎合し、外交手段の多くが失われ、戦争へと進んだ。ポーツマス条約に怒った世論にも屈しなかった政府では、もはやなかった。
清沢も、戦前の多くの知識人も、日本の国体は天皇であり、アメリカは世論の国だと言ったが、本当にそれは正しかったのだろうか